私の偏愛ーー不動産エージェント(賃貸)一章
2,450、60、70――。
数字の羅列が、まるで心臓の鼓動のように頭の中で反響する。目標まで、あと10万円弱。月末まで、今日を入れて残り3日。目の前の決済管理表は、赤や青、緑のマーカーで塗りつぶされ、まるで戦場映画の地図のように混沌としていた。そこに刻まれたメモ書き一つひとつが、この一か月の苦闘を突きつけてくる。
「おいおい、ここまできてマジか。」
思わずつぶやいた。決算目前の店内はざわめき、どこか張り詰めた空気が漂っていた。時計の針がミーティングの時間を告げる。僕は重たい腰を上げ、営業社員の待つカウンターへ向かった。そして反響受付管理表、営業社員6人の見込み客を確認するが、結果は予想通り。昨日、現地で案内した顧客の返事待ちが1組あるだけで、期待は薄い。
私は指示を出した。
「分かった。今日の飛び込み、メール反響は追えるが、電話反響だけは予測ができない。だから電話が入ったら、必ず私に報告してくれ。」
ミーティングを終え、そこから2時間、もう一度ひとり一人と顧客管理を洗い直す。だが、希望の光を感じさせる見込み客は見つからず、時間だけが無情に過ぎていった。
このとき、私には人事異動が待っていた。4日後の4月1日、本社配属が決まっていたのだ。今年度の目標は未達が多く、そして最後の3月は閑散期の二倍以上という無謀な数値。それでもキャリアの総決算として準備を重ね、全力で挑んできた。――あと1契約。それだけで良かった。なのに、ここまで来ても結果を出せない自分が、ただ情けなかった。
私は椅子の背もたれに身を預け、時計を見る。11時。天井の白い板を見つめながら、無数の声と電話音でごった返す店内に身を沈めた。
そのとき――。
「かしこまりました。少々お待ちください。」
耳をかすめた一本の電話。営業社員が振り返り、驚きの表情で告げる。
「店長! 医慶大新入生の反響です。親御さんからで、今日ご来店希望とのことです!」
一瞬、時間が止まった。だが慌てるのではなく、むしろ奇妙な落ち着きが僕を包む。――ついに来た。この瞬間を待っていたのだ。私は電話を代わるよう指示し、お話を伺うと、掛川から学校に通う予定だったが、想像以上に遠く、一人暮らしを考えたいという相談だった。そして、今日の午後、公共交通機関を使って来店したいという。
私の頭に浮かんだのはただひとつ――道中に並ぶ無数の大手不動産会社の看板だ。もしそのどこかに親御さんがふらりと立ち寄ってしまえば、その瞬間すべては終わる。3年間の積み重ねも、最後の勝負も、一瞬で水泡に帰す。胸の奥を冷たい手で締めつけられるような感覚と同時に、思わず質問した。
「ご自宅のお近くに、何か目印になる場所はありますか?」
「大きな公園があります。」
私は言った。
「かしこまりました。弊社は医慶大に近いため物件は豊富です。ただ、医大が浜松駅から離れているのはご存じのとおりで、弊社も同じです。そのため今からお迎えに上がります。」
これまでにも、浜松駅までの送迎は何度か経験してきた。その積み重ねがあったからこそ、今回はさらに一歩踏み込み、自宅まで迎えに行くことを即座に提案できたのだ。この一件を逃せばすべてが終わる。背水の陣を敷いた今、常識や効率のルールに縛られている余裕はない。自分の中で何かが吹っ切れ、迷いなく“送迎”という決断を下した。
電話口の向こうから、親御さんと子どもが相談している声が微かに聞こえる。私は祈るように手に汗を握り、結果を待った。
「それでお願いします。ありがとうございます。」
「かしこまりました。では1時間後、公園でお待ちください。必ずお迎えに上がります。」
電話を切った瞬間、胸が大きく波打ち、すぐに営業社員を集めた。
「この1本に、この3年間のすべてをかける。そして全員で応対したい。これが私の最後の営業になる。だから吸収できるものは全部吸収してほしい。そして伝説にしよう。」
そして指示を飛ばした。
「前村は送迎と案内。大崎と浜田は物件準備。高橋は俺が応対に専念する間の店運営を。斉田は契約後の家主承諾を。加藤は電話反響を取ってくれてありがとう、そのままでいい。全員、動いてくれ!」
こうして、私の偏愛が始まった。
――つづく。