私の偏愛ーー不動産エージェント(賃貸)六章

「これで十枚ご用意いたしました。気になるものがあれば、どうぞお声かけください」

息子さんは、一枚のカードをゆっくりと私の前に差し出した。
「この物件は、どのあたりですか。」

私はマウスを軽く動かし、カーソルで物件位置を示す。モニターを息子さんの方へ回した。
「こちらです。大学まで徒歩だと少し距離がありますが、自転車で十分ほど。途中少し坂があるのが難です」

「そのくらいなら、問題ないですね」

小さくうなずく横顔に、ようやく反応の兆しが見えた。その瞬間を逃すまいと、私は次のカードを滑らせる。

「では、こちらはいかがでしょうか。大学まで徒歩十五分。北側の区画整理地内で環境も良く、過去にデザイン賞を受賞したアパートです」

息子の眉が、わずかに動いた。
「築十年ですよね。あと、アパートはちょっと」

「かしこまりました」

ではこちらはいかがですか。通学距離を意識した物件をたびたび提示するが難色を示した。

やはり“見た目”か。それも洒落た可愛らしさではなく、どこか威厳を感じる造り――“重厚感”に惹かれているようだ。

母親が、たまらず口を挟む。
「そんな見た目にこだわらなくても、ねぇ」

同意を求めるように私をのぞき込む母と、無言を貫く息子。空気がぴんと張り詰めた。息子の指先がカードを滑らせるたびに、そこには理屈ではなく、“納得”を探す執念のようなものが宿っていた。

「お話し中失礼します」

振り返ると、大崎が軽く頭を下げて小声で言った。

「エステートマンションの家主さまから折り返しの連絡ありました。どうしますか」

条件が変わったからな。心の中でつぶやく。念のため母親に確認すると、外観だけでも現地を見たいとのこと。息子さんは「行かなくてもいいよ」と、わずかに眉を寄せ、気だるげに答えた。

今、焦るな。私は心の中でそう言い聞かせる。多様な可能性を想定し、鍵の位置やキーボックスの番号を確認するよう大崎に伝え、その場を整えた。

インタビューを重ねるうちに、十五枚ほどのカードが出入りした。そして、彼の中の“本音”が、ようやく形を帯びていった。

築五年以内。大学まで自転車十分圏内。マンション。駐車場一台。そして、一階可。

それは、医慶大生に多い“通学重視”の条件とは少しずれていた。そのため物件探しの時期が遅れても、良質なスペックでありながら引き合いの少なかった物件が、今、息子さんの目で特別な輝きを放っていた。

さらに「一階可」という条件が、彼の選択肢を大きく広げている。市場と個人のメリット、デメリットが、美しく噛み合う。彼が“自分で選んだ”という満足が、確かに表情に宿った。

満足は、提示ではなく、選択の中から生まれる。

カウンターの上には、四枚の物件カードが残った。息子さんは、それらをゆっくりと見比べ、満足そうにうなずいている。私は心の中で、静かに呟いた。

この中から、二枚に絞る。

ここで弱気になり、愛想よく四物件すべてをご案内すれば、「この間取りで、さっきの立地があれば良いのに」と迷いが生まれ、時間切れ引き分け、可否の出ない最悪の結果となる。

そしてその結果を部下に問い、成長を促すこともできるだろう。だが、今回は違う。それだけは絶対に阻止せねば。私は、心の奥でそう鼓舞した。

カウンターで決着をつける。

この瞬間こそ、店長である前に、営業マンとしての真価が問われる場面だった。

――つづく。