私の偏愛ーー不動産エージェント(賃貸)七章
目の前に四枚の物件カードが並ぶ。
私は受付用紙に書かれた「希望条件」と照らし合わせながら、一枚一枚を慎重に見比べた。しかし先ほどまで必死で探した物件。どの物件もバランスよく希望を満たしている。大枠で差はない。
しかし実際にお客様が借りるのは一部屋。この中で必ず、選ばれない理由を持つ物件があるはずだ。私は今までの当たり障りのないインタビューから内容を変え、お客様の心のうちを探るような質問を二、三度した。
「これからの人暮らしが楽しみですね。何か趣味はありますか?」
息子さんは少し照れながら、視線を落とす。
「映画を見たり、たまに料理したりするくらいです」
その言葉に、母親がすかさずかぶせた。
「実は息子、料理が好きでして。つい先日まで飲食店でバイトもしていました。たまに私が仕事で遅くなる日は、息子に夕ご飯をお願いしています」
眉間に軽くしわを寄せ、息子は余計なことは言わなくてもいいよ。とでも言いたげな顔をする。
そうなのか。これは願ってもないチャンスだ。息子さんは“たまに”と言ったが、きっと料理が好きなのだろう。それは、母親の話もさることながら、息子さんが選んだ物件カード四枚すべてが「二口ガスコンロ対応」なのだ。私はその微妙な選択を見落としていた。
よし、これで二枚まで絞り込める道筋が見えた。私は、不動産エージェントとして知識と経験、そして現場で培った勘を総動員し、お客様の口から“なるほど”という一言を必ず引き出す。胸の奥で静かに舵を切り、波を読むように次の一手を打った。
「山田さん、1Kと1Rの違いってご存じですか?」
息子さんの動きが止まり、私に視線を向けた。
「右が1K、左が1R。キッチンと部屋が同室か、別室か。微妙な違いがあります」
私は物件カードを並べ、指で示しながら説明を続けた。
「1Kは料理の匂いが居室にこもらないのがメリット。逆に1Rはテレビを見ながら料理できるのが魅力ですね。どちらを良しとするかは、本当に個人の感覚次第です」
私はお客様の表情、そのわずかな動きに神経を研ぎ澄ませた。私が決め急いで「こちらが良い」と決めつけ、意見が食い違えば、信頼を曇らせ、流れを止める。
フラットな心を装いながら、息子さんの一言を待った。胸の奥では鼓動が静かに高鳴る。沈黙が、こんなにも長く感じるのは久しぶりだ。時間がゆっくりと伸び、世界がスローモーションになったように、彼の口が開く瞬間をただ見つめていた。
「やっぱり、匂いが残るのは嫌ですね」
母親もすぐに続く。
「そうね。自宅でもカレーを作った翌日はリビングに匂いが残ります。これからはその部屋にベッドや衣類があると思うと、嫌ですね」
息子さんは右手で口元を触りながら、数回うなずく。これは1Kだな。私はお客様の話に乗っかるよう
「お母様のおっしゃる通り、それ理由で1Kを選ぶ方が多いんですよ。ちなみにこの1Rは八帖と書かれていますが、キッチンを含めた広さです。しかも窓が一か所。料理好きな方には少し厳しいかもしれませんね」
私はさらに
「それと料理を頑張りたい方にとって、浴槽と洗面台が同室のタイプは、歯ブラシなどの小物をキッチンに置くようになり衛生面で難があります。そのため洗面台の独立している物件をおススメします。こちらのような」
私はおススメしたい物件カードを指さす。母親、息子の目線はその指先を追う。そして“なるほど”を引き出した感触を掴み、胸の奥で、小さな歓声が弾けた。
そしてこれ以上押しが強くならないようサラッと一言添える。
「もちろん、主たる条件を変えてまでして、細部の条件を優先する必要はありません。しかし主たる条件が満たしているなら、次に生活のしやすさを優先することをおススメします」
そして候補から外れたカードを静かに二枚下げ、残った二枚をカウンターの中心に滑らせる。
「この2つの物件、どちらもバストイレ別、洗面独立、そして1K。料理好きな息子さんにちょうど良い間取りではないでしょうか」
母親から
「そうですね。この二つのどちらかが良いわね」
息子さんの表情も満足げだ。よし、案内するのはこの二物件にしよう。カウンター越しに、わずかに熱を帯びた空気を感じる。ここから先は、物件カードではなく「心」を動かす時間だ。
お客様の心を、どう動かすか。私は、何百回、何千回と繰り返してきた“あの時間”が、静かに始まろうとしてきた。
つづく。


