私の偏愛ーー不動産エージェント(賃貸)九章

テストクロージングだ。

そのためにもう一度“引っ越し時期”をおさえたい。この時期が曖昧なままだと、迷ったとき「急いでいるわけではないので」と先送りになる可能性が高い。

私は受付用紙を眺めながら

「ちなみにお引っ越し時期は、4月上旬でよろしかったでしょうか」

母親は落ち着いた様子で
「自宅からでも通える距離ですし、ゴールデンウィークまでに引っ越しできれば良いと思っています」

あれ、おかしい。ゴールデンウィークまでか。

受付で確認した時期より、ひと月ほど遅くなっている。胸の奥で、小さな違和感が灯る。もしかして、息子さんの一人暮らしにまだ気持ちの整理がついていないのか。ふと、そんな考えがよぎる。

その一言で、自分でも気づかぬうちに動揺していた。五秒、十秒と思考が脳内を駆けめぐる。ふと我にかえる。あぁ、まただ。学生時代、未来を恐れて体が固まったあの瞬間と同じ。起きていない未来に怯え、目の前の現実をねじ曲げて見ている。

母親はただ「ゴールデンウィークまでに」と言っただけで、反対とは言っていない。それは単なる“準備の都合”かもしれない。私は深く息を吸い、静かに吐いた。そして焦りが、音もなく消えていく。

冷静さが戻ると、状況がはっきり見えてきた。単に一カ月の余裕ができただけの話だ。むしろ、提案した物件の中で十分対応できる。頭の中の霧が晴れ、再びお客様と向き合う視線に力が戻る。今度こそ、未来ではなく“いま”に集中する。

私はあらためて姿勢を正し、お客様を見つめた。そしてテストクロージングの口を開く。

「弊社は自社物件のほか、大西建託さま、大音リビングさま、地元の管理会社さまなど、幅広くお取引しています。その中で、賃貸の退去通知は“1か月前”が一般的です」

いつもと同じ精神状況、話のリズムが戻ってくる。
「そして今は3月下旬。4月下旬までの退去通知はほぼ出揃っています。またそのような物件の入居可能な時期は、クリーニングを経て5月中旬~下旬が中心。つまり“今”はゴールデンウィークまでの物件情報で最も充実している時期なんです」

最後に複数の可能性を示唆し、そこから一点にグッと寄せる。

「もし山田様のお引越しが6月、7月以降なら、もう少し待たれても構いません。しかし4月~5月上旬をご希望なら、まさにベストタイミングです。いかがでしょうか?」

息子さんは、はっきりと
「4月末までには引っ越したいです。ゴールデンウィークには別の予定がありますので」

私はその言葉を待っていたかのように、迷いや躊躇することなく言い切る

「それでしたら、今回の2物件は時期的にも条件的にもぴったりです。本日、すぐにご見学できますが、いかがでしょうか?」

「はい、ぜひお願いします」

息子さんの声は少し高まる。そして母親は静かにうなずき、息子の独立を受け入れるような表情を見せた。

よし、このタイミングで送迎した前村に引き継ぎたい。私はサッと振り返り、声をかけた。
「前村さん、こちらに来てください。今からこの二物件のご案内をお願いします」

背後で待機していた前村が、すぐに反応する。
「はい。こちらの物件ですね。かしこまりました。まず資料をコピーしますので、少々お待ちください」

その声には、いつもの張りと安定感がある。積み重ねた日々が、確かな信頼を生んでいる。三年間、何十回、いや何百回と繰り返してきたこの連携。私が応対し前村が案内する。息の合った“黄金のパターン”だ。

私はコピーする彼の背中に安堵し、席を立つ。ふと店内を見渡すと、他の営業社員たちも半身の姿勢でパソコンに向かいながら、今か今かと“送り出し”の瞬間を待っていた。

店舗全体が一組のお客様に向き合い、ひとつのチームとして動いている。この瞬間、私たちは確かに「最良の店」になっている。胸の奥で、静かな誇りが灯る。

そして、私は背後から複合機の前村に近寄り、一言

「最初は初田町で」

つづく。