私の偏愛ーー不動産エージェント(賃貸)十章

前村を送り出す。

ホッとしたのも束の間、安堵の余韻はすぐ現実に引き戻された。店長席に戻り入金管理表、行動予定表を一枚ずつめくる。「うわぁ、すごいな」数字、予定、メモ、訂正。期末なだけに目の前の紙には、ここ数時間で信じられないほどの進捗がぎっしり凝縮されている。

入金管理表には、事務の内田さんの几帳面な字で本日の結果が記されていた。整然とした数字の列。小さな丸印や補足メモ。その一つひとつに、彼女の正確さと責任感が滲む「今日も完璧だ」。

仕事中はいつも隣の席にいるのに、私との会話はほぼない。彼女は朝、軽く会釈をし、黙々と入金確認に没頭する。私もまた、次々と舞い込む仕事に意識を向ける。この三年間、入金管理表だけが互いの意思疎通の手段だった。

私は少しの時間、バックヤードに腰を下ろす。誰もいない静寂の中、ブラック缶コーヒーを一口、また一口。苦味が体に染みる。

壁には、繁忙期の目標グラフが貼り重ねられ、赤、青、黄色の線が錯綜している。達成、未達、丸、バツ。どのグラフにも、みんなの努力が刻まれていた。「ここまで、よく頑張ってくれた」感謝と悔しさが入り混じる。

そしてドアを開けようとした瞬間、ふと社内通信が目に入った。そこに載っていたのは、春店・川田店長の写真と「今年も連覇を成し遂げたい」コメントの一文。

彼と初めて会ったのは、藤が谷店2階での店長会議だった。当時は20代後半。180センチほどの長身、中肉中背、優しげな顔立ち。新任店長の挨拶では、見た目に反して営業出身らしい鋭い語気、そして、自分の考えをまっすぐに通す芯の強さを今でも覚えている。

そんな彼は、ほんの数年前まで名も知れぬ存在だった。だが、そこからの快進撃はすさまじく、まるで嵐のように営業担当者を巻き込み、引きずり込みランキングを駆け上がる。そして今、彼の店舗は、誰もが認める全店一の称号を手にしている。その陰で私は、春店以外にも先月は同地区の岡田店に負け、今月は同県の静山店にも負けようとしている。確実にジリ貧になっていた。

店長として最後の月。せめて自店舗の目標だけは達成し終えたい。いや、必ず達成して終わる。コーヒーの缶を静かにゴミ箱へ置き、私は深呼吸をひとつして、バックヤードのドアを押し開けた。

ワッと外の光が目に差し込み、喧騒の音が戻ってくる。電話のベル、複合機の音、社員の声。静寂から一気に現実へ引き戻される。そして数分後、カウンターで作業していた斉田が振り返りながら声をかけてきた。

「店長、前村さんから電話です」

その表情には、緊張と好奇心が入り混じっている。まるで映画のワンシーンを眺める観客のように。

受話器を取る。すぐに前村の声が聞こえた。
「初田町の物件の見学が終わりました。えー、息子さんは問題ないですね。ただ母親が“ここから通学本当に大丈夫なの? 雨が降ったら大変よ”と、少し心配そうで」

「ん、そうか。分かった」
私は短く返しながら、心が一気に引き締まる。学生の住まい探し。この業界の中では、最も安定し良質な顧客層だ。だが今回は少し違う。親子、それぞれの本音がまだ固まっていないのだ。

どちらかに偏れば、もう一方が離れる。まるで、薄氷の上を歩くような案内になっている「これは一筋縄ではいかないな」。

だがその中で一点だけ救いがあった。それは引っ越し時期が5月末まで、一カ月以内。その条件さえぶれなければ、まだ勝機はある。そう言い聞かせ、自らを鼓舞する。

「次は位置的に母親の希望だった半川町の物件を巡回しながら、東四方へ向かってくれ。それと半川町は車内で“内見したい”という話が出たら、内見してほしい。逆にその話にならなければ、巡回だけにしてほしい。その判断は任せる」

「了解です」

前村の声は落ち着いている。緊張の中にも確かな自信があった。私はさらに言葉を重ねる。
「今回の案内は、まず“息子さん”と向き合う。ここで中途半端に母親の意見を優先すると、全体の流れが崩れる。だから予定通り、初田町・半川町・東四方この順番でいこう」

「そして途中の盛り上がりに欠けたら一気に“母親の意見を優先”する方向に切り替える。具体的には、もう一度半川町に戻り今度は内見せよ。二度手間になるが順序だてていきたい。慌てずに行こう」

受話器の向こうで「はい」と力強い声。彼の呼吸の音さえ、集中しているのが分かる。

「じゃぁ、東四方を終えたら連絡してくれ。クロージングは私がやる。だからお客様の表情、そこだけはしっかり観察して報告してほしい」

「あっ、待て。東四方に行くときは医慶大の前を通り、区画整理された街並みを通ってほしい。あの物件なら多少距離はあるが徒歩でも行ける。そこの母親の反応を見てほしい」

この短いやり取りの中に、信頼も、責任も、勝敗の重みも詰まっていた。正直次の電話で申し込みをいただきましたと、前村に言ってほしい。しかしここでもつれた案件はそう簡単にはいかないだろう。私は受話器をゆっくりと置き、天井を見上げた。蛍光灯の光が少し滲んで見える。

あと一本。

届きそうで、遠い。だが、決して届かない距離ではない。口元が自然と緩む。

「やれやれ、こりゃ面白くなってきた」

つづく。