私の偏愛ーー不動産エージェント(賃貸)五章
息子さんにご希望を聞いてみると、それまでの沈黙が嘘のように、よどみなく話始めた。
どうりで最初に紹介した物件カードにピンとこなかったわけだ。その理由がようやく腑に落ちた。息子さんの希望は「築浅」。さらに突き詰めれば「モテ部屋」。大学まで、駅までの距離云々ご両親のご希望だった。
家賃はご両親が支払うので五万円までは変わらない。その条件で築浅を求めるなら、エリアを広げるしかない。息子さんもそれを理解し、自転車通学で問題ないと割り切っていた。
ふと思う。もしかして今回のお引っ越しは、もともとご両親が「大学へは自宅から通いなさい」と言っていたのではないだろうか。しかし、入学を目前に息子さんは「夜の講義があるから」「通学が大変だから」何かと理由をつけ、一人暮らしを強く願い出たのかもしれない。
ただ、本音はきっと別のところにあるだろう。それはアルバイト、サークル、合コン。親の目の届かないところで、思う存分、学生生活を楽しみたい。そんなやり取りがあったに違いない、と想像をめぐらせた。
私は再び大崎と浜田を呼び寄せ、物件探しを再開した。浜田はラックから空室一覧を抜き取り、マーカーで候補をチェックしながら管理会社に資料を依頼する。私は大崎と並び、キャビネットの物件カードを黙々とめくる。
時おり大崎が「まじかー」「これは大変ですね」とぼやき始めたので、私は黙れと言わんばかりの目で合図した。そして五枚の物件カードが揃った。
さて、どう提案すべきか。私の頭の中で二つの営業方法がせめぎ合う。
ひとつは、まず条件の悪い物件から提示し、徐々に条件の良い物件を差し出していく「押しの営業」。営業社員が主導し、お客様の期待とモチベーションを高めながら、最終的にご案内へ導く方法だ。
もうひとつは、最初から条件の良し悪しを織り交ぜ、多くの物件カードを数回に分けて提示し下げる「引きの営業」。お客様ご自身が「選ぶ」体験を通じて満足感を得ることで、自然とご案内への流れをつくる方法である。
今回はどちらが正解か。モチベーションを外から押し上げるか、あるいは、内から引き出すか。思考が脳裏を駆けずり回る。
私は「引きの営業」を選んだ。
「押しの営業」は、受付用紙の段階で“売り物”が見えたとき、信頼を得たときにこそ効果的だ。しかし今回はまだ見えない。またコミュニケーションは取れているが、私への信頼は十分かというと、そうではない気がした。
そのため物件カードを多めに出して、息子さんの反応を見極めながら物件を下げ、ご案内に誘う。それが最善だと判断した。
「まずはこちらの五枚をご覧ください。もしイメージと違うようでしたら、カウンターの端に置いてくださいね。他にも色々とありますので、また後ほど、ご紹介させていただきます」
私は物件カードをカウンターに並べた。そして次の一枚を探そうとキャビネットに振り返える。その瞬間、母親が息子のわがままを詫びるように、小さく頭を下げた。
「すみません、うちの子、ちょっと理想が高くて」
その言葉に、一瞬だけ空気が止まる。私は口角を柔らかく持ち上げ、いいえ、大丈夫です。こちらこそ今日はご来店ありがとうございます。と心の中で静かに応えた。この謙虚な一言が再開の狼煙となり、私は一段と勢いをつけて進み始める。
私はキャビネットへ手を伸ばし、大崎、浜田と共に再び探し始めた。キャビネットが擦れる耳障りな金属音、紙の擦れる乾いた音、時おりバタンとボックスが倒れる。それらが混ざり合い、まるで業績不振時に営業部長が臨店する前の静けさ、緊張感を生む。
数分後、十枚の物件カードがカウンターに並ぶ。私は深く息を吸い込んだ。手のひらに残るわずかな汗を、無意識にズボンで拭う。そして、静かに思う。
あと一本だ。
このような瞬間に立ち会えることは、そう多くはない。お客様の理想を真正面から受け止め、営業社員と共に挑む。仲介件数はお客様から私たちへの評価数だと思えば思うほど、この緊張と高揚が店長職の醍醐味でもあった。
光が差し込み、カードの縁がわずかに輝く。そして、私は小さく息を吐き、前を見据えた。
次の瞬間から始まる商談が、まるで映画の新しい幕開けのように感じられた。
つづく。