【短編小説】私の偏愛ーー不動産エージェント(賃貸)十四章
翌朝十時。予定通りお客様はご来店された。
私は父親へ名刺を配り、息子様の一人暮らしがこの物件に至った経緯を丁寧に説明した。
父親の表情には不満も警戒もなく、ただ静かに耳を傾ける。その物腰や言葉遣いに品があり、昨日母親に抱いた印象と重なる。
昨晩の話と変更点はなさそうだ。私は胸の奥で自然と緊張がほどけていった。そして、前村を紹介し、昨日同様に案内を任せた。
その二十分後、前村から報告電話が入る。
「えー、東四方町で申し込みになりました。入居は四月中旬、管理会社へ連絡しフリーレント一ヶ月承諾済み。契約始期は四月一日でお願いします」
「あと、信用審査も通過済みです。担当の方も医慶大の新入生で喜んでいました」
その言葉を聞いた瞬間、張りつめていた一本の糸がふっと緩む。安堵が店の空気にゆっくりと落ちていった。
「決め手は?」
「東四方町を見た後の半田町は、古く感じたみたいです。息子さんがバイトで補うからここがいい、と父親を説得しました」
「了解。戻りの車で今後の流れを伝えておいて。安全運転で」
電話を切る。店内は私の発言や表情で結果を察したのだろう。周囲の空気は少し柔らぎ、皆の肩が僅かに落ちた。
「斉田さん、東四方町で申込処理をお願いします。受付用紙と物件カードはこれ。四月一日始期で、特約にフリーレント一ヶ月追加してください」
「了解です」
そこへ案内中の高橋から電話が入る。
「店長、昨日のお客様、寺島町で申し込みになりました。今から戻って手続きをします」
胸が大きく跳ねた。
「よし。よくやった。こっちは東四方町で申し込みいただいたよ。二つあれば目標達成に十分だ。ありがとう。安全運転で戻ってきて」
「かしこまりました」
翌日、昨日の申し込み処理と月末の業務整理に取り掛かる。社員の表情には、達成の歓声よりも、むしろ肩の荷を下ろしたような安堵が浮かんでいた。皆さんにとって、私は結果に対し厳しく向き合う上司であり、それが皆さんを引っ張る半面、重さも与えていたのだろう。
だからこそ今、目標を達成しながらも、彼らは喜び以上に「私という圧から解放される安堵」を感じているようだった。その緩みは、人間らしい自然な揺らぎとして、私にはかえって愛しく思えた。
いつもの月末、期末の時間が流れている。明日になれば数字はゼロに戻り、また新しい目標へ向かって走り出す。賃貸仲介の営業は、つくづくあだ花だと思う。
咲いては散り、形として残らない。数字の達成、未達成。月が変われば砂のように指の隙間からこぼれ落ちていく。だからこそ、その一瞬の輝きに命を燃やす。たとえ儚く散る花であっても、その瞬間だけは確かに美しい。消えるからこそ、咲く価値がある。
結果に追われ、期待に縛られ、それでも笑顔の一つに胸が熱くなる。この仕事は切なく、不安定で、けれど気高い。私はその痛みと甘さを中毒のように愛した。私の偏愛だ。
時計を見ると、もう夜の八時を回っていた。気付けば店内のBGMは止まり、さきほどまで響いていた社員の帰り支度の声も消えている。広い店内には、もう私一人だけだ。
ガラス越しに流れていく車のライト。遠くでバイクが夜を裂くように走り去る音。それらが静かな店内に薄く滲み、店長職という区切りをゆっくりと告げていた。
期末を終えたあとに、どうしてもやりたかったことがある。そのために私は引き出しから、一枚の古いメモを取り出した。
パソコンを立ち上げ、社内システムの申請ページを開く。背筋を伸ばし、深く息を吸う。誤字ひとつ許したくない。想いが濁らぬように。感謝だけが、まっすぐ届くように。指先に心を乗せ、ゆっくりと打ち込む。
営業職は、数字が成果として表れ、自身の成長や報酬を肌で感じることができる。売れた、決まった、その一点で世界は変わる。しかし、店内で一人だけ、同じ景色が見えにくい人がいる。
どれほど正確に、どれほど献身的に、毎日を積み重ねても、その成果が数字として光ることはほとんどない。報われる瞬間は、誰より少なく、静かだ。
だから私は、この店を支え続けてくれた誠実さに報いたかった。影に徹し、誰より黙々と積み上げてきた努力に光を当てたかった。数字では測れない価値が、確かにそこにあった。
店長として最後の仕事。その申請タイトルは
内田事務員 主任昇格申請書。
おわり。

