私の偏愛ーー不動産エージェント(賃貸)三章

私の出番だ。

鼻から深く息を吸い、口から静かに吐き出す。胸の奥に、静かで強い火が灯る。求めるのは「申し込み」ではなく「最良の提案」。そして社員たちの前で、自らお手本を示すこと。

胸の内には、学生時代に培ったスポーツの経験が息づいている。勝ちを意識しすぎれば崩れる。だからこそ、過程に集中する。その真理を思い出しながら、私はカウンター越しに立っていた。

「山田さまでしょうか」
「はい」
「お待ちしておりました。どうぞ、こちらの席にお掛けください」
「失礼します。お電話で対応させていただきました、店長の石田です。よろしくお願いします」

お客様は軽く会釈をされ、私の右手に案内され着席した。続いて私もお客様の着席を見計らい着席、名刺を差し出した。

私の名刺入れは笹マチタイプ。応対の際には、常に一枚を本体と蓋の間に忍ばせ、右端をわずかに出しておく。さらに名刺を逆さに入れておくことで、瞬時に取り出せるよう工夫していた。かつて転勤のお客様にその所作を気づかれ、感心されたこともある。だが今回は母親と息子。細やかな配慮がアピールに繋がる場面ではなかった。

気を取り直し、言葉を紡ぐ。
「本日はご提案をお聞きいただきありがとうございます。前村の運転は大丈夫でしたか」
「はい、電車なら2時間はかかりますので助かりました」
「それは良かったです。医慶大は浜松駅から車で40分はかかりますからね。今年も多くのお客様を送迎しました」
「そうなんですね」

来店への感謝を伝え、状況に応じた具体的な一言を添える。ホスピタリティーを意識した。ただし送迎を過度に強調すれば恩着せがましい。だから「日常の一部」として、さらりと触れ、さらりと流す。お客様との距離感。その微妙な線引きに神経を集中させた。

「お電話でお伺いしたご希望条件にそって物件をご用意しましたが、その後お変わりはありませんか。もう一度確認させてください」

私は、エリア・家賃・間取り・その他の希望を受付用紙に記入しながら、相槌を打ち、丁寧にメモを取った。意識するのは「この人なら安心して任せられる」と感じてもらうこと。そのために余計な提案は控え、じっとお客様の言葉に耳を澄ませる。

経験上、プロの言葉はお客様を容易に動かしてしまう。気の優しいお客様ほど、その瞬間「それも良いですね」となびかされ、後になって我に返り「やはりキャンセルしたい」となるケースを数多く見てきた。だからこそ今は、言葉を受け止め、真意を探ることに集中する。

またお客様は初めてのお引っ越しか、二度目以降か。動機は外部要因か、内部要因か。その見極めが肝となる。
初めてなら妥協点は想像から、二度目以降なら体験から。その重みは全く異なる。また、転勤や就職といった外部要因なら時期は明確。広い部屋に住みたいやペットを飼いたいといった内部要因なら時期は曖昧になる。その違いを頭の中で整理し、仮説を立てていく。

私が考える賃貸仲介ビジネスの本質は、どの会社も扱う物件が同じと仮定した場合、「初めての引っ越し」×「外部要因」のお客様をどれだけ多く集客できるかで勝敗が分かれるということだ。仮にA店が週末来店8組(内7外1)、B店が5組(内0外5)なら、申し込み数はきっとB店が上回るだろう。その典型的な期間が、1月から3月の繁忙期である。

「このようなご条件ですね。かしこまりました。今から追加で複数物件をご用意いたします。その間、こちらの受付用紙上段の太枠内をご記入ください」

お客様は安堵した表情を見せ、氏名・住所・電話番号を丁寧に書き込み始め、店内に静寂が訪れた。

私は数枚の物件カードを準備しながら心の中でつぶやいた。さぁ、ここからが本番だ。ただその片隅で、一般的に決定権者と言われる「父親」が同席していないことが気になっていた。

つづく。