私の偏愛ーー不動産エージェント(賃貸)四章

「ご記入ありがとうございます。ではこちらに物件カードを並べますね」

お客様は私に受付用紙とペンを差し出し、軽い会釈をした。私もそれにこたえるよう会釈し、受付用紙を見直す。良識のあるお客様、与信は問題ないだろう。

家賃五万円以内・医慶大まで徒歩十分・二階以上・築十年以内・洋室八帖

まさに“一人暮らしを始める人が望む代表的な条件”であり、特別変わった要望ではない。しかし今はもう桜のつぼみが色づき始めていた。今から探して見つけるのは至難の業だ。

さらに追い打ちもあった。先ほど大崎から報告を受けたが、お問い合わせの物件ともう一物件は、家主様と連絡がつかず、空室確認も鍵の手配もできないという。今日は平日。仕事中なら電話に出られないのは当然だ。

神頼みで折り返しの連絡を待つしかない。

だが万が一を考え、別プランも用意しなければならない。胸の内はもやもやと落ち着かない。私はそれを悟られぬよう、ゆっくりと受付用紙をサイドテーブルに移し、お問い合わせの物件と条件に近い3.4枚のカードを慎重にカウンターへ並べた。

「こちらがお問い合わせ物件です。また、条件に近いものもいくつかご用意しましたのでご覧ください」

そして一言添えた。

「なお、直近で空室確認は済んでおりますが、他社さまでも紹介可能な物件が多いため気になるものがあれば、お気軽にお声がけ下さい。再度確認します」

この一言は、仮に今確認できない物件が埋まっていたとしても、お客様の不信感を軽減したい。そして「物件は流動的」という事実を理解いただき、競争心を刺激、主導権をこちらに引き寄せる狙いもあった。

お客様はカードを手に取り、じっと見つめ、一枚一枚並べ直していく。やがて手を止めて母親が言った。

「このステートハイツは、大丈夫ですか」

その瞬間、心がわずかに跳ねた。やはり本命だ。積山駅にも徒歩圏で、学校にも近い。エアコン、一口コンロ、広さは七帖ほど、築年は15年ほど経っていたが内装はクリーニングされており、学生が住むには打って付けだ。

ただその物件はまだ空室確認ができていない、鍵の手配も出来ていない物件。私は答える言葉の重さを感じながら、口を開いた。

「はい、大丈夫だと思いますが、今日はまだ家主さまと連絡が取れていません。しかしつい先日も別のお客様をご案内しましたので」

一瞬、動きは止まり
「その方は、申し込みされなかったのですか」

「はい。医慶大の北側は区画整理され、スーパーも揃い綺麗な住宅地なのですが、このアパートのある南側は違います。南側は積山駅に近いものの、周辺は山や田畑、川が残り、どうしても薄暗さを感じる地域でして」

その説明を聞いた息子さんの表情が少し険しくなり、初めて口を開く。
「虫、出ますか」

受付からここまで、会話は母親だけだった。私は何度か息子に話を振っても相槌だけ。ようやく飛び出した言葉がそれだ。きっと虫が苦手なのだろう。

「正直、出るか出ないかは分かりません。ただ建物の裏が森で、出やすい環境と言えますね」

「それなら、学校の北側で探したいです」

途端に母親が被せる。

「駅に近い方がいいわよ。お母さんも手伝いに行きやすいし、お父さんもそう言っていたでしょ。我慢しなさい」

「いやだ。だってこれ古いし、マンションじゃない」

息子さんも言い返す。意見がまとまっていないのか。まさかここで親子の対立を見ることになるとは。私は気配を消すようにして、その場を一旦離れた。

数分後、戻って声をかけた。
「いかがですか。お話まとまりましたか」

母親は少し不満げにほほ笑み。
「はい。住むのは息子ですから、息子に任せることにしました」

最終的に住むのは本人。ならば本人が納得する物件が最も良い。この手の話は意外に多く、母親も自身で納得しやすい理由なのだろう。私は胸をなでおろし

「かしこまりました。では今度は息子さんからご希望条件を直接お聞かせください」

息子さんの警戒の色が消え、目元がふっと緩んだ。はじめは振り出しに戻ったようにも思えたが、私がインターネットでは分からない現場の情報を伝えた瞬間、空気が変わった。

さらにその一言をきっかけに話は息子さんの都合に従う形で好転、口数の少ない息子さんと心理的な距離もぐっと縮まった。

店舗とは、インターネットには乗らない生きた情報をどれだけ集め、どう伝えるか。その大切さを改めて実感し、確かな手ごたえを感じた瞬間でもあった。

つづく