私の偏愛ーー不動産エージェント(賃貸)八章
ご案内に行く物件が確定した。次は、お客様の「心」を動かす時間。具体的には、モチベーションの調整とテストクロージングの時間だ。
賃貸仲介営業の本質は、カウンターセールスにある。ご案内前の商談こそが勝負であり、ここでどれだけお客様の意思を固められるかが、結果を左右する。またお客様にとっても、中途半端にご案内に出て「やっぱりこの物件を見るのをやめて、もう一度お店に戻って話しましょう」と言われては、迷惑な話だ。
ご案内に出る前に、条件、優先順位、気持ちそのすべてを整理しておく必要がある。だからこそ、私はこの“案内前の商談”を、賃貸仲介営業で最も重要なプロセスだと位置づけている。そのためこれまで何度も、自らお客様対応の最前線に立ち、また営業社員の商談に介入し、サポートしてきた。現場で磨き上げたこの時間の積み重ねこそが、お客様から信頼を勝ち取る最大の武器である。そしてその地道な行動を支えてきた言葉が、
実力以上の結果は出ない。
これは、あるスポーツ選手の言葉だ。私は学生時代、極度のあがり症だった。大学リーグの大切な場面に立つたび、緊張で体が固まり、何度もミスをした。ミスをした日は必ず体育館に戻り、後輩と夜遅くまで練習した。次こそは大丈夫だ。そう心に誓っても、また同じ場面で手が震えミスをした。そんなとき、私はこの言葉に出会い気づいた。
私は、大切な場面だからこそ“実力以上”を出そうとしていた。期待に応えよう、失敗してはいけない。その見えない未来のプレッシャーが、自分を縛っていたのだ。それ以来、私は変わった。勝負どころでは、未来を考えない。過去の鍛錬と、今の実力を信じて出し切ることだけに集中した。
すると、あれほど悩まされたあがり症が嘘のように消え、目の前の状況を冷静に見極められるようになった。そして今、社会人になった私もプレッシャーを避ける方法は、あの頃と同じ。ただ違うのは、今は試合ではなく「お客様との一瞬の対話」が勝負の舞台だということ。
私は、目の前のお客様を憑依するかのように見つめた。過去の自分が積み重ねたすべてを、この一瞬に重ね合わせた。すると、ふと異変に気づいた。お客様のモチベーションが、明らかに高すぎる。まるで“ご自身の理想を叶えた注文住宅”を見に行くかのような高揚感。一見すれば、最高の流れに見える。こちらの提案も響き、期待値も十分。だが、私は直感的に「まずい」と感じた。
それはこれからご案内に行くのは、一般的な賃貸中古マンションだ。確かに良い点もあるが、同時に弱点も混在している。理想と現実のギャップで一気にトーンダウンする。俗に言われる“現地崩れ”が起きる危険があった。私は椅子の背にもたれ、ほんの一瞬だけ目を閉じた。よし、提案時に弱点を説明したがここでもう一度、現地の映像を見せ、あえて少しモチベーションを下げる一手を打つことにした。
「ではもう一度、初田町の物件からご説明しますね。」
私はゆっくりとモニターに映像を映し出す。そこには大通りから外れた静けさというより“人の気配の薄さ”が漂っている。「先ほどもお伝えした通り立地は落ち着いていますが、少し寂しさを感じるかもしれませんね。それに南側に5階建ての賃貸マンションが建っていて、日当たりが少し弱いのが難点です」お客様の視線が、わずかにモニターに寄る。そして私は続けた。
「次に、東四方町の物件です。こちらも立地がポイントでして、交通は便利ですが、車の騒音が気になる方もいらっしゃいます」
画面には幹線道路が映り、車のヘッドライトや排気ガスらしき影がある。お客様の表情を観察しながら、私は営業を俯瞰する。このパターンの多くの“現地崩れ”は、日当たりや道幅といった、ほんのわずかな周辺環境の感覚の違いで起こる。だからこそ私は、視覚と聴覚の両方で現地の空気を伝え、期待を少し冷まし、案内現場での失望を防ぐよう心がけている。それは、数えきれないほどの失敗から学び取った、私なりの“モチベーション調整”だった。
すると、母親が静かに口を開いた。
「学生の一人暮らしですし、日中はほとんど外。そこまで気にしなくても大丈夫ですよ」
息子さんも軽くうなずく。その表情には一切の迷いがない。ここまで弱点を説明してなお動じない。これなら、現地崩れの心配はないだろう。よし、次はテストクロージングだ。お客様の目には、確かな満足の光が宿っている。
私は静かに息を整え、口元にわずかな笑みを浮かべた。
つづく。


